「想定外」に備えるには
防災の日に書いた「多摩川大氾濫? ~防災の日に調べてみた~」でこれまでの川崎市のハザードマップよりも、厳しい見立ての国土交通省のハザードマップが発表されたことに触れました。
ここ数年の全国各地での大雨被害を見ても、「想定外」という表現がしばしば使われます。そうなると行政として「想定外」をなくそうと思うのは自然の流れですよね。でも長い歴史の間にはその想定すら超える災害が起こっても不思議ではないように思います。
地球という生命体の生きてきた歴史のなかでは氷河期や熱帯期があったことでしょうし、有史以前のことまで僕らは計りしてませんですもんね。。。
そろそろ災害が起きてもおかしくない
都市部の一級河川のスーパー堤防も50年に一度の大雨を想定して築造された、という話も聞きます。そうなると僕が多摩川を意識して暮らすようになって23年です。1974年の狛江の水害から計算しても、そこから通算50年まであと8年。
今一度、防災意識を高める時期に差し掛かっているようです。
野生の動物は自然の変化を察知して避難したりしています。では人間にはそういう感性がなくなってしまったのでしょうか。
大雨の増水を見に行って流されてしまう方が後を絶ちません。「これは尋常じゃないぞ!」という野生の勘のようなものは働かないのでしょうか。
僕がライフセービング活動をやっていて海や自然と接してきた時間が長いからとか、そういうことを抜きにしても、毎年台風シーズンに目にする多摩川が増水したときの様子には、動物として危機と恐怖を覚えます。その実感からいつも思うんです。繰り返しになりますが、全国各地で台風シーズンに、なぜ多くの方々が増水に流されてしまうのでしょう。。。
野生の勘を研ぎ澄まそう!
僕は思います。
人間として生命の危険に晒される機会がない世の中だから、そういう感性は退化したんじゃないか、と。
または自然の中で「自然に触れている」という自覚を持つ時間が短いことも、野性を退化させているんじゃかいか、と。
自然の猛威を猛威だと、生命の危機を生命の危機だと、それぞれ気づかないのはとても危険です。
歴史の中で「生命の危機」に晒さないために社会インフラが整備され、様々な機器物品が開発製造され、安全思想の教育などが施されてきたわけですので、その「気づかなさ」は文明の深化による恩恵であることは素直にありがたいことと思います。
そういった現代の生活環境を享受しつつ、暮らしの中で自然に触れているという自覚をもって、少しでも野生の勘を退化させないように暮らしていきたいと思いました。それが自然災害に対しての対策になると考えます。
だからこそこれからも、自然を感じながら暮らせるマイホームをお勧めしていきます。